無題

吐き出した溜息が心の中にポッカリと穴があいたことを教える。そこから出てきた息だ。溜息をつくたびに少しずつ心の穴の周りの脆くなったところが崩れて、口から出ていっているような感覚に陥る。無力、あまりにも無力だった。ぼくは泣いた。泣き崩れた。それ以外にこの感情の置き場が見つからなかった。そんなものはきっとなかった。

一昨日の朝、小学校の頃から遊んでくれていた3つ上のお兄ちゃんが亡くなった。自殺だった。
ぼくは小さな頃に引っ越しをしてきた。幼いぼくは急に仲の良かった友達のいない環境に慣れることができず小学校の頃、よく遊ぶ友達というものがいた記憶がない。そんなぼくを連れ出してくれたのがそのお兄ちゃんだった。うちに見慣れないゲームを持ってきてくれて一緒に遊んだり、時には鬼ごっこ外に探検に行ったり、きっと身体能力が全然違ったはずなのにぼくは本当に楽しくて、ピンポンを押してくれる友達、押しに行く友達ができたことを心から喜んだ。それがなかったらきっとぼくは友達の作り方も遊び方もわからないまま大きくなっていったんだろうと思う。彼はとても真面目だった、当時はまだやんちゃなところもありつつ、でも人生がしっかりと見えている人だった。「たっくんぼくの夢はねサラリーマンなんだ。大きい夢もいいけどちゃんとそうやって安定した幸せを手に入れるんだ。」そう笑顔で話してくれたのを覚えている。今思えば小学高学年の少年の言う言葉ではないと思うしまだぼくも理解できる歳ではなかった。ずっと前を歩いてるオトナな考えを持つ人でぼくの憧れるお兄ちゃんだった。兄弟の中で妹しかいないぼくにとって本当の意味でのお兄ちゃんのように感じていた。

それから中学校に上がって遊ぶ回数は少しずつ減っていってなくなった。お互いに遊ぶ友達が変わっていって、それが成長なんだと思った。たまにぼくがお兄ちゃんの家の犬を散歩されてもらったり、家の前で会った時は挨拶をしたしどこかに修学旅行に行くたびにお土産をくれた。最近では忙しい仕事の合間を縫ってレコ発ライブに顔を出してくれた。

思い出話なんて腐るほどあるのだ。いつかお酒を飲みながらゆっくり話せたらって思っていた。ぼくが自分に自信が持てるようになったら肩を並べられるようになったら、そう思っていた。残念ながらその景色はこの先一生訪れることはない。残念ながら、じゃねぇよ馬鹿。馬鹿、馬鹿、、割り切れない。

おじいちゃんが亡くなった時もひいおじいちゃんが亡くなった時もすぐには泣かなかった。実感がなかったし病気だったから少しは心構えができていた。
お兄ちゃんの死因が病気だった、あるいは事故だったなら別の気持ちを抱いていたと思う。人格を知っているのだ。どんなことを考えてどんなことで悩むのか、少しは知っている。だから苦しかった。悔しかった。
結論から言えばお兄ちゃんも病気だった。「鬱病」これは心の弱い人間がかかる病気だと思われがちだがそうじゃない。人一倍真面目だったり優しかったり責任感が強かったり、そんな人がかかってしまう病気だと思っている。少なくともぼくの周りに何人かいるけれどそんな人が多いように感じる。

ぼくは知らなかったが3ヶ月前から新しい職場に馴染めず鬱病と診断され、家にこもっていたらしい。泣きながら話しにきてくれたおばちゃんは「仲の良い友達にも会って、私には少しずつ良くなってるんじゃないかって思っていたの。あれはゆっくりとお別れの準備をしていたのね。私も最近25歳の節目だからプレゼントさせてよってぼくは自分のために何か買っても嬉しくないんだって。
誰かにプレゼントして喜んでもらえる方がぼくも嬉しいからって。私、まんまと喜んでもらっちゃってね。気づけなかった。」
おばちゃんはぼくから見たら昔から聖母のように優しく綺麗で正しい人だと思う。あたたかい心を持った人格者だと思う。だからこそ近くにいて救えなかった自分を責め続けていてこれからも責め続けるのだろう。でもぼくには首を振るばかりで何も言えなかった。

本当にお兄ちゃんらしいと思った。どんどんと自分の想像が形を確かにしていく、そんな優しいお兄ちゃんが、自らが死ぬ前、余裕なんてきっとない時にも家族のことを考えて部屋を全部綺麗にしていくようなお兄ちゃんが、その選択をする前にどれだけ苦しんだだろうか、どれだけ自分を責めただろうか。駄目なやつだって生きてちゃ駄目なんだってそれでも生きようって何回自問自答して、、苦しかっただろうなぁ、、痛かっただろうなぁ。隣の家にいて何も気づけなかった。ひとつも。
きっと全部計画通りだったんだと思う。だってあれだけ真面目に自分の人生の道を作れる人だったんだ。半年前にチケットが余って一緒にライブに行った時には、今の仕事は凄く好きで入って、人にも恵まれてでも身体的にずっとできる仕事じゃないから今からもう公務員試験の勉強をしてて、25歳くらいになったら転職するんだって、笑顔で話してた。自分の未来が見えるしそれを叶えられる人だった。

それが転職先で一気に崩れることになる。人数の少ない職場、それまでと違う仕事のやり方、戸惑いはあったと思う。それでも修正していける強さも頭の良さもあった。ただその上で人格を否定されたそうだ。これまで生きてきた自分の生き方全てを。追い詰められて自分でもできない自分を追い詰めて最後には口から言葉がでてこなくなって、病院に向かうと鬱病と診断されたと、遺書には書いてあったそうだ。

「全然駄目なんかじゃないのにねぇ、今でも自慢の息子なのにねぇ。」とおばちゃんは何度も繰り返した。ぼくもおばちゃんが母親に話しにきてくれた直後、その話を聞いて泣きながら帰ったすぐのおばちゃんの家のインターホンを押した。こんな情けないグチャグチャの顔で、でもすぐに行かなきゃいけないと思った。
はーい!とカメラに映るぼくを見て精一杯の明るい声を作ったおばちゃんがドアを開けてくれる。
ごめんね、そんな悲しい顔させてごめんね 近所のお兄ちゃんがそんなことしてあの子は駄目だねぇ。
そんなことないです。今でもぼくにとってもずっと憧れです。
途切れ途切れだった。自分でも驚くほど涙が出て言葉も出てこなかった。
おばちゃんは何度も頷いてありがとうと、ゆっくりとぼくの返事を聞いてくれた。
その後話を聞いて、また声が出なくなったぼくに、重かったらごめんね あかくんのお家にあの子お世話になったからって遺書を残しててね あの子のラインから送ったから後で見てあげてねと言われた。

はい、重くなんてないです。しっかり読みます。
この一行の言葉に何分もかけたと思う。この返事が合っていたのかわからないまま、また落ち着いたらお邪魔させてくださいと伝えて家に帰った。

家に着いても何も手につかない、何度も思い出の場面が繰り返した。小学校の頃からそれこそ走馬灯のようにお兄ちゃんのいるシーンだけが流れていく。躊躇ったが送ってくれたという遺書を見た。もう言葉にならない感情だった。逆に言えば言葉が処理しきれないほどいくつも頭に浮かんでぼくは声をあげて泣いた。
ぼく宛の部分だけを抜粋するが、昔たくさん遊んでくれたこと、その時に迷惑をかけてごめんね とありがとう。ライブに誘ってくれてありがとう。たっくんの歌がすきでした。と最後に書かれていた。

最後に全てが過去形になったことが最後まで人となりがわかるその優しさが嬉しくて苦しかった。ぼくも人生の一部になれたろうか。

ぼくは明日も歌う。ライブハウスで歌う。お兄ちゃんの好きだと言ってくれた歌を歌う。でも明日はちゃんと歌えるか不安だ。いやでも今ならすぐなら届くんじゃないかとそこに縋る。この気持ちで立つのが正しいのかわからない、ましてやフェスだ。でもあのステージで自分に嘘をつきながら歌うようになったらぼくは終わりだ。気持ちが絶対にのらない。精一杯気持ちで歌います。でらノメ一番手よろしくお願いします。

Aメロにもならない

あか Mez-zo-forute gtvo

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